MASTERPLAN第一部総括 #maspla

二日間ぐーたらしあとなので、意識が高まって書いたら、雑用担当が日記消したので欝になりながら執筆中。
批判に感謝しつつ答える形でお送りします。

何はともあれまずid:mizchi
僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla

詳しくはTwitter #maspla を見てもらえれば、なんとなくわかると思う。彼らの意識の高まりと、一般的に言えば上滑り気味のそれが。


僕はそのイベントに、どうしようもない断絶と絶望を感じた。振り返って、僕には、彼らのような起業マインドも自己啓発力もない。ただ少しばかりアーリーアダプターであり、未熟なスクリプトキディであり、彼らが成したいと思っている技術について少し通じているかもしれないが、その力を彼らのために振るうことはけしてないだろう。そう感じさせられる距離が、間違い無くそこにあった。


その理由について少し述べてみたい。やや抽象的になるが、当人達なら僕の言わんとしていることがわかってもらえると信じている。

わかると言わざるをえない。
そもそもMASTERPLAN第一部は、「意識が高い」と言われるような学生にそれをわからせるために企画されたのだ。
マスタープラン企画書をご覧頂きたい。
企画書はgoogleドックスで公開されていて、とてもアクセスが悪かったのを正直反省するが、是非ご覧頂きたい。

彼らはそのクラスタに閉じており、外部の「意識が低い」人と交わることはないし、「表舞台に上がる人間の意識が低いはずない」という逃げ口上も用意している。壇上で堂々とそれを語られたせいで、僕はただ、僕がある程度「卑怯」である以上に、どうしようもなく彼らが「卑怯」に感じてしまったのだ。

僕はこれは誤解だと感じている。
当初の企画は、ソーシャルグラフが広いようでとても質的にはクラスタに閉じている「意識の高い」学生と「意識の低い」学生をぶつけることでそれを示す企画だったのだ。
その結果わかるのは以下のようなことのはずだった。

「マスタープラン」の感想、あるいは「意識の高い学生」と「全能感」にまつわる話 #maspla

一般的に、「意識の高い学生」と呼ばれる人間は、そのような「大学生らしい頭の悪さ、バカっぽさを存分に引き出しているが、その方向においてはかなりの努力を行い、もしくはクオリティを維持しているもの」に対する理解を実は持っているものである。なぜなら、自分たちも「バカ」になるときは徹底的に「バカ」になるものだから。彼らの言う「意識の低い学生」は、「意識の高い学生」に対し、「お前らのやることなんか、いくらでも変な方向に模倣できるんだぜ」というステレオタイプを提供し、「高い学生」を笑いながら楽しみ、新たなネタを提供する。このように、彼らは実は共存関係にあり、むしろその「輪」の中から零れ落ちる大多数の人間こそが、「意識の高さ」を屈折した形で批判するのである。

まさにこのような入れ替え可能性が明らかとなったはずだった。
このような「高さ」と「低さ」の入れ替え可能性すら理解出来ない程度の、しかも屈折した形で批判もしないような、無個性にロールモデルを信仰するしかできない(笑)をつけられてしまう学生に大しての啓発のための企画だった。

「意識の高い学生」として元々呼んでいたパネラーは、団体を作ってマネジメントしたり、身近なロールモデルを示すような学生だった。それは時に宗教とみなされ笑いの対象でもあったが、彼らのおかげで楽しく学生生活を送る者もいた。
言い換えればそれは「(笑)」をつけられてしまうような学生をいわば敢えて「引き受ける」(宗教と言われても仕方ない形だが)だけの俗悪さと、しかしそれによって(笑)を自分にもまたつけられることに耐えられるだけの強さがある学生だったのだ。

「意識の低い学生」はまさに彼らにロールモデルを示されるような学生ではなく
まさに、id:mizchiと同じ

リクルート式に無個性な彼らは、例えば日本を一周する。ロールモデルに追従する彼らは、結果はどうであれ、最初の人間が当初に持っていたマインドを共有してはいまい。彼らは、その計算高さを隠そうともしない。

僕はMagnetPressというサークルでフリーペーパーをつくっていたのだが(おそらくマスプラ出席者の少しばかりはこのサークルを知っているだろう)、それは単純にコンテンツを作りたいという衝動から発したものであり、マスメディアのロールモデルがあったからではない。

YMT56にしろ、秘密結社笑い飯にしろリンク先を見てもらえばわかるだろうがそのような思いからコンテンツを製作していた学生を呼んだつもりだ。
無論その方がコンテンツの質がいいのはあたりまえだし、YMT56は計算高い学生が出たくて堪らないマスメディアに全く意図せずに取り上げられるに至った。

彼らをぶつけたかったのはら僕も同じ批判を彼らに抱いていたからだ。

その批判を向けられて、そのようなリクルートロールモデルや機会の提供を行なっている「意識の高い」彼らはどう反論するのかが見たかった。
しかしながら、様々な理由から「意識の高い」全員が直前に出演を辞退したため、それは叶わなかった。

なので、第二部の「意識の高い学生」を代わりに呼ばざるを得なかった。
彼らは、「(笑)」をつけられるような学生を「引き受けない」潔癖さと既に事業を始めていたり誰にも認められる能力と実績を持っている、それが許されるだけの力を持った学生だった。

そんな彼らと、「意識の低い」学生ではどうやっても対立は起きなかった。
その場は一方的な「(笑)」をつけられる学生の断罪になってしまう。
それはまさに

表舞台に立つ人間が偉いのではない。壇上の人間は選ばれた人間ではない。

彼らはアジテーターとしていくらか優れた人間かもしれない。だがその無配慮な選民意識は、凡百な僕らを逆撫でする。恐らく僕らが、意図的に見落とされているものだとわかるから。

このように感じさせるような同世代について勝手に代表して選民意識を持ち、優越感を感じさせる態度である。故に避けたかった(こう批判されているということは避けられなかったということでもある)。

だから、キャンセルによって前日に設定しなおしたテーマは、「(笑)」をつけられる学生への断罪ではなく、他者に「(笑)」をつけてしまう自意識をこそ攻撃するテーマであった。
元々のパネラーの辞退によって、おそらくは「(笑)」がつけられるタイプの学生の集客は期待出来なかった。来たのは「(笑)」をつける側の人間だっただろう。
故にこのテーマであるべきだった。

「表舞台に上がる人間の意識が低いはずない」という逃げ口上も用意している。壇上で堂々とそれを語られたせいで、僕はただ、僕がある程度「卑怯」である以上に、どうしようもなく彼らが「卑怯」に感じてしまったのだ。

彼らの用意したフィールド、論壇、コンテキスト、それらが一体どれだけ僕らに味方することがあろうか。
仮に、僕が第二回マスプラに呼ばれたとして、だ*1。カメラ映えもせず、頭の回転も遅く口が回らない、怠惰を隠しもせず押し通す僕を毛嫌いするだろう。二度と呼ばれることもないだろう。それがわからないほど、僕は、「意識が低い」僕らは、愚かではない。

このように、第一部は諸事情から構造的に欠席裁判という勝手に代表する態度で同世代を攻撃する形になり「卑怯」な構図になってもしまったし、「不在者」を攻撃してしまった。だが、そもそも「表舞台に立っている」人間と戦うための舞台だったのが原因なのだ。

第一部の批判についてはプロデューサーとしての我が身の非才を嘆きながら以上のように弁解させていただいた。
しかし、この「選民思想」を感じさせるという批判は第二部にこそ向けられるべきではあることを僕は自覚している。ということで第一部総括はこんなところだが、第二部総括にもまだまだ付き合っていただきたい。