MASTERPLAN第一部総括 #maspla

二日間ぐーたらしあとなので、意識が高まって書いたら、雑用担当が日記消したので欝になりながら執筆中。
批判に感謝しつつ答える形でお送りします。

何はともあれまずid:mizchi
僕は、「意識が高い学生」にNOと言う。或いは「若者」の時代の閉塞感について #maspla

詳しくはTwitter #maspla を見てもらえれば、なんとなくわかると思う。彼らの意識の高まりと、一般的に言えば上滑り気味のそれが。


僕はそのイベントに、どうしようもない断絶と絶望を感じた。振り返って、僕には、彼らのような起業マインドも自己啓発力もない。ただ少しばかりアーリーアダプターであり、未熟なスクリプトキディであり、彼らが成したいと思っている技術について少し通じているかもしれないが、その力を彼らのために振るうことはけしてないだろう。そう感じさせられる距離が、間違い無くそこにあった。


その理由について少し述べてみたい。やや抽象的になるが、当人達なら僕の言わんとしていることがわかってもらえると信じている。

わかると言わざるをえない。
そもそもMASTERPLAN第一部は、「意識が高い」と言われるような学生にそれをわからせるために企画されたのだ。
マスタープラン企画書をご覧頂きたい。
企画書はgoogleドックスで公開されていて、とてもアクセスが悪かったのを正直反省するが、是非ご覧頂きたい。

彼らはそのクラスタに閉じており、外部の「意識が低い」人と交わることはないし、「表舞台に上がる人間の意識が低いはずない」という逃げ口上も用意している。壇上で堂々とそれを語られたせいで、僕はただ、僕がある程度「卑怯」である以上に、どうしようもなく彼らが「卑怯」に感じてしまったのだ。

僕はこれは誤解だと感じている。
当初の企画は、ソーシャルグラフが広いようでとても質的にはクラスタに閉じている「意識の高い」学生と「意識の低い」学生をぶつけることでそれを示す企画だったのだ。
その結果わかるのは以下のようなことのはずだった。

「マスタープラン」の感想、あるいは「意識の高い学生」と「全能感」にまつわる話 #maspla

一般的に、「意識の高い学生」と呼ばれる人間は、そのような「大学生らしい頭の悪さ、バカっぽさを存分に引き出しているが、その方向においてはかなりの努力を行い、もしくはクオリティを維持しているもの」に対する理解を実は持っているものである。なぜなら、自分たちも「バカ」になるときは徹底的に「バカ」になるものだから。彼らの言う「意識の低い学生」は、「意識の高い学生」に対し、「お前らのやることなんか、いくらでも変な方向に模倣できるんだぜ」というステレオタイプを提供し、「高い学生」を笑いながら楽しみ、新たなネタを提供する。このように、彼らは実は共存関係にあり、むしろその「輪」の中から零れ落ちる大多数の人間こそが、「意識の高さ」を屈折した形で批判するのである。

まさにこのような入れ替え可能性が明らかとなったはずだった。
このような「高さ」と「低さ」の入れ替え可能性すら理解出来ない程度の、しかも屈折した形で批判もしないような、無個性にロールモデルを信仰するしかできない(笑)をつけられてしまう学生に大しての啓発のための企画だった。

「意識の高い学生」として元々呼んでいたパネラーは、団体を作ってマネジメントしたり、身近なロールモデルを示すような学生だった。それは時に宗教とみなされ笑いの対象でもあったが、彼らのおかげで楽しく学生生活を送る者もいた。
言い換えればそれは「(笑)」をつけられてしまうような学生をいわば敢えて「引き受ける」(宗教と言われても仕方ない形だが)だけの俗悪さと、しかしそれによって(笑)を自分にもまたつけられることに耐えられるだけの強さがある学生だったのだ。

「意識の低い学生」はまさに彼らにロールモデルを示されるような学生ではなく
まさに、id:mizchiと同じ

リクルート式に無個性な彼らは、例えば日本を一周する。ロールモデルに追従する彼らは、結果はどうであれ、最初の人間が当初に持っていたマインドを共有してはいまい。彼らは、その計算高さを隠そうともしない。

僕はMagnetPressというサークルでフリーペーパーをつくっていたのだが(おそらくマスプラ出席者の少しばかりはこのサークルを知っているだろう)、それは単純にコンテンツを作りたいという衝動から発したものであり、マスメディアのロールモデルがあったからではない。

YMT56にしろ、秘密結社笑い飯にしろリンク先を見てもらえばわかるだろうがそのような思いからコンテンツを製作していた学生を呼んだつもりだ。
無論その方がコンテンツの質がいいのはあたりまえだし、YMT56は計算高い学生が出たくて堪らないマスメディアに全く意図せずに取り上げられるに至った。

彼らをぶつけたかったのはら僕も同じ批判を彼らに抱いていたからだ。

その批判を向けられて、そのようなリクルートロールモデルや機会の提供を行なっている「意識の高い」彼らはどう反論するのかが見たかった。
しかしながら、様々な理由から「意識の高い」全員が直前に出演を辞退したため、それは叶わなかった。

なので、第二部の「意識の高い学生」を代わりに呼ばざるを得なかった。
彼らは、「(笑)」をつけられるような学生を「引き受けない」潔癖さと既に事業を始めていたり誰にも認められる能力と実績を持っている、それが許されるだけの力を持った学生だった。

そんな彼らと、「意識の低い」学生ではどうやっても対立は起きなかった。
その場は一方的な「(笑)」をつけられる学生の断罪になってしまう。
それはまさに

表舞台に立つ人間が偉いのではない。壇上の人間は選ばれた人間ではない。

彼らはアジテーターとしていくらか優れた人間かもしれない。だがその無配慮な選民意識は、凡百な僕らを逆撫でする。恐らく僕らが、意図的に見落とされているものだとわかるから。

このように感じさせるような同世代について勝手に代表して選民意識を持ち、優越感を感じさせる態度である。故に避けたかった(こう批判されているということは避けられなかったということでもある)。

だから、キャンセルによって前日に設定しなおしたテーマは、「(笑)」をつけられる学生への断罪ではなく、他者に「(笑)」をつけてしまう自意識をこそ攻撃するテーマであった。
元々のパネラーの辞退によって、おそらくは「(笑)」がつけられるタイプの学生の集客は期待出来なかった。来たのは「(笑)」をつける側の人間だっただろう。
故にこのテーマであるべきだった。

「表舞台に上がる人間の意識が低いはずない」という逃げ口上も用意している。壇上で堂々とそれを語られたせいで、僕はただ、僕がある程度「卑怯」である以上に、どうしようもなく彼らが「卑怯」に感じてしまったのだ。

彼らの用意したフィールド、論壇、コンテキスト、それらが一体どれだけ僕らに味方することがあろうか。
仮に、僕が第二回マスプラに呼ばれたとして、だ*1。カメラ映えもせず、頭の回転も遅く口が回らない、怠惰を隠しもせず押し通す僕を毛嫌いするだろう。二度と呼ばれることもないだろう。それがわからないほど、僕は、「意識が低い」僕らは、愚かではない。

このように、第一部は諸事情から構造的に欠席裁判という勝手に代表する態度で同世代を攻撃する形になり「卑怯」な構図になってもしまったし、「不在者」を攻撃してしまった。だが、そもそも「表舞台に立っている」人間と戦うための舞台だったのが原因なのだ。

第一部の批判についてはプロデューサーとしての我が身の非才を嘆きながら以上のように弁解させていただいた。
しかし、この「選民思想」を感じさせるという批判は第二部にこそ向けられるべきではあることを僕は自覚している。ということで第一部総括はこんなところだが、第二部総括にもまだまだ付き合っていただきたい。

[雑記]:MASTERPLANと批評について

そもそも私は大学生活も終わりに差し掛かり、内定先から課されているEラーニングもほっぽり出して一体何をやっているのか。

それはもう、批評をするということを後輩に教えることに尽きる。批評や思想なんて、身近なものにも向けられなければ意味が無い。学生が身近な自分たちのことを考えられないようではいけないのだ。だからMASTERPLAN第一部はまさに学生身内の問題である「意識の高い学生」というテーマなのだ。

そして二部は、逆に大きな社会のことだ。何故この構成なのかといえば、身近なことを批評するには大きな社会のこともアマチュア程度には考えられなければならないからだ。

実際、頭がキレる奴でもあまりにその団体のことしか知らないヤツは最も敬遠される批評家気取りの学生になる。
これはとても多いし、あまり役にも立たないのは事実で、だからそしてそうなってはいけないと学生はよく言われるし、まずは動けと行動に駆り立てられる。

逆に、それでも批評とかが好きな学生は目の前の現実と切れた大きな部分へそれを向けて自分の実存をなだめる。

いや、実際僕もそうだった。まさか5年になって引き篭っていた和敬塾から出て、早稲田祭のステージという場所に自分の批評みたいなモノを使ってみるまで学生が置かれた現状とは僕にとって他人ごとだった。

早稲田祭のステージで使ったのはポストモダン的言説では使い古された、トップダウンの崩壊とか、プロシューマーとか、ステージ上と客席の人間は入れ替え可能とか、ニコニコ動画で見たほうがコメントつけられてリアルより面白いという話を僕はした。(余談だが、ニコニコ動画にリアルパフォーマンスが勝てるのは、環境や規範によって見る態度をこちらが決定できることくらいしか無い。後ろ向けとか、声出して騒げ、とか。)
結果として採用された僕らの中でのスローガンは「主客の崩壊」だった。そういう感じのもので文章にすればあまりにチープ。
だけど実際にパフォーマンスとしてステージを降りて、みんなが主役だから一緒に騒ごうって、やったらいままでに無い試み、として受容された。
学生が新しいことを考えられるなんて、全くの嘘っぱちだ。
全然、大人のほうが頭もいいし、時代に追いつくのも早い。

そんな大人の言うこととか書いたものをしっかり勉強すれば、こんなにも実り多く楽しい時間が過ごせるのだ、ということを示したい。
第一部は学んできたことを学生という身近な対象に向けてまさに使って見せる。学生なら誰もがゼッタイに楽しめるものになる。
第二部は学生の時にそれを怠ってきた大人よりは、優れた議論ができることを示してみせる。
少なくともお前らに心配されるほど落ちぶれちゃいねーぞ、と。

まぁ、そんな感じでEラーニングブッチして日々広報戦略とか、当日の議論の流れとか、そのために必要な文献とか読んでます。
とにかく、学生舐めてる大人と、大人舐めてる学生に届けたいので、広報にはみなさん協力してください。

[応答]:『 閉塞感からの脱出ゲーム  「全共闘」との比較に見る「学生維新」の可能性について— 』に対して

Twitterでやると言っていたこの記事への応答ですね。
http://blog.livedoor.jp/hypocenter/archives/4018178.html

いつの時代も若者は社会への閉塞感を感じながら生きている。そのことは、彼らの行動を見ていけば自ずと明らかになっていく。なのでまずは、そもそもどこから閉塞感が生まれてくるのかということについて考えていきたい。私は閉塞感というものは打ち込むべきものを喪失した時に、意識するようになることだと思っている。

社会への閉塞感は全共闘の参加者の話や安保闘争における著作(多分小熊英二あたりを読んでいるようだけど)を読んでいけば「自分の関係ないところで社会が動いている」とか「レールに乗った思い通りにならない人生は嫌だ」いうような、社会に対する思い通りにならなさ、バーリンの定義で言えば国家や、大学などの社会に対する「積極的自由」の欠如によって生成されると僕は思っている。

ありていに言えば、「俺の声を聞いてくれ!」というものだ。この日本ではまさに全共闘、その前の安保闘争で下からの異議申立てが行われたが、それは黙殺されたと言ってよい。

そのかわり、池田勇人国民所得倍増計画、田中角栄の日本列島改造計画によって「上から」国民の意志に沿った経済的な豊かさはもたらされた。

うん、これをダメだと言うつもりは僕はない。なにせ当時生活が豊かになること=経済的な自由は政治的な自由よりもよほど国民に欲望されていた。それが多くの国民の声だった。

だからその時代の人たちに文句を僕は付けることが出来ない。しかし先達のおかげでこの日本はとても豊かになった。そしてそんなにお金がなくても幸せに生きて行けるようになった。娯楽はパソコンでいくらでもタダ同然で手に入り、凄まじく安いハンバーガーや牛丼でハラは満ちる。ファッションすらもユニクロなんかであまりに安価で手に入るようになり、「民主化」したと言われている。

しかしこの時代における閉塞感とは、その時に経済的な自由を求める声にまぎれてしまった政治的な自由を求める気持ちなのだ。それは全共闘時代の高校闘争などに見られる。生活に関係のない高校生の声はある意味でより純粋に理念としての政治参加を欲求していた。

つまりそもそもの出発点がこの議論は間違っている(というかあまりにも打ち込むべきものを喪失した時というのが曖昧)。いつの時代(少なくとも戦後以来、もしかすると戦前も)も閉塞感を若者が感じている、というのは生活するということのリアリティを知らないがゆえに、若者は「民主主義」的な国家や社会への積極的な参加を欲求しているのだ。

それによって起こる閉塞感が、学生を活動へと駆り立てる。それは学生運動時代よりもさらに多様化し、国際援助、ボランティア、社会起業などなど様々な活動がある。

以下は大学に学生運動が取り上げられたので大学について少し述べているが面倒な人は取り敢えず飛ばしても構わない。

先に述べたが、「政治参加」とは国家(勿論シンボルとして最も強固だ)に対してだけではない。なぜこんなにも、社会は私の望む声を反映しないのか。
選挙で政治家が語る言葉の全てが私の意思を反映していないのか。
そのすべての原因は政治過程がこの国ではぶっこわれているからだ。
(ちなみに学生運動以来、大学という場所は国家よりもさらに民主主義的ではない)
「会社はだれのものか」という議論すらあったというのに、「大学はだれのものか」
という議論で、学生のものでもあるのだから教授の選定や、施設の使用の規定について口を出していいという議論が起こることが無いのは公共空間の第一候補でもある大学としてはやっぱりおかしいとは思う。

同じことが就職活動においても言える。全共闘は左翼であるため、彼らは運動当時「反体制」の立場を取っていたはずだ。しかし全共闘収束後は、大学を卒業し就職するというごく普通の人生のレールへと戻っていくことになる。「反体制」を叫んでいた彼らは、大学卒業後は反対していたはずの「体制」に取り組まれ、社会の歯車として生きていくことになる。まるで学生時代の政治思想の正反対を行く行動である。

こうしてみると全共闘の運動は、若者の熱を冷却させる効果を持っていたということが見えてくる。社会への閉塞感からくる莫大な不満のエネルギーを政治へと向け、運動によって発散させることで、自身を満足させていたのだ。

重要なのはイデオロギーではない。
そもそも小熊英二が指摘したように、学生運動の参加者の多くはイデオロギーという大文字の「目的性」よりもよほど、大学や該当という空間で同じ若者同士(ことに異性と)コミュニケーションを求めていたという小さな「共同性」を求めていたということを忘れてはならない。

別に昔の学生のほうが今の学生より熱いってことはない。
僕達が社会を良くしようと思ってボランティアや社会起業を目指して活動しているのと同じくらい彼らも社会を変えたいと思っていた。
そして企業するする留学するする詐欺と同じように、彼らも武力革命するする詐欺をしていた。
そして女の子に会うためにサークルに入るのと同じように彼らもバリケードの中に入ったりもしていたのだ。

だが、その時代と決定的に違うのは豊かさだ。ぶっちゃけ、今の時代には彼らが求めてやまなかった様々なものが一つを除いて手に入っている。
豊かな娯楽や飢えない生活も、友達をつくる場所も、女の子と出会う場所もいくらでもある。ある一つの物以外は我々はもう持っている。

我々の声を聞いてくれる公共だけがない。どこにもない。
これこそがあの時代と今の時代に共通することだ。
そしてそれが無いのが今はあまりに当たり前になっている(政治のやることは景気よくすることだけだというクズのような放言はその証左だ)
ある一定の年齢以上の日本人は公共的な話を経済的な話だと思っている。
それ以外のことはむしろ私的な部分だと思っている。そんなものはハンナ・アーレントを引くまでもなく間違っているに決まっている。

学生維新とは、2010年10月、明治大学にて発足した学生運動である。受け身の大学生活に疑問を感じ、自分たちの大学に活気をもたらそうとして名付けたのが、かの歴史に名高い明治維新をそのままに「明治(大学)維新」。発足当時は、何かしたいけど何をすればいいか分からない学生のために、「夢中になれるもの探し」のお手伝いをしようという目的だった。

学生維新の当初の目的はそれに対してど真ん中ストレート正解とまでは行かないまでも、活気の無い大学の不満という変革の萌芽を私も感じていた。
(特に私は女子大の学生維新の学生たちにそれを強く感じる。彼女たちはジェンダーや、社会的評価、例えば周囲はみんな総合職ではなくて事務職に出す、など女子大という場所を自分の望む大学生活が送れる場所でないと強く感じていたのではないかと推測しているし、今もTwitterなどでの彼女たちの言説から強くそれを感じるのだが、それは今度本人たちに確かめてみるとする。)

しかし、学生維新は一瞬で堕落した運動になる。
その学生維新を1968年のあの反乱と学生維新を比べるのは私はさすがに先達に無礼だとすら私は思っている。
あの時代、当初の大学との条件闘争という目的が次第に変化して言ったのは様々な要因がある。もちろんセクト同士の意地の張り合いなどのエスカレーションも強くあるが、僕はそこに大学との闘争を通じて政治過程に参加していない自分たちに気づき、しかしそれを変える手段を武力闘争しか思いつかなかった苦しみもまた見るからだ。

学生維新はそもそも目的性を強く持たない組織だ。「夢中になれるもの探し」のお手伝いをしようという目的そのものが、それを自分で見つけられていない証拠だと言ってもいい。

そして学生維新は

僕ら理念として掲げました。「地球をもっともっと元気に」元気って言ったところで、凄く難しいところだと思うんですが、それは各大学であったりメンバー一人一人が思うものを想像して進めていただければ。「もっともっと」ってのが少しポイントで、どちらかというと今ある体制というか学校の在り方というものを強烈に変革していこうと言うよりかは、「more better」といった精神を持って進めて行ければなと。

と堕落の極みのような茫洋として間口の広い理念を掲げるに至る。
こうなった学生維新はもはや共同性のために駆動する、ただのイベントサークルになった。それはむしろ楽しく大学生活を過ごすことだけを目的としたオールラウンドサークルなどの呑みサークルよりも悪だといわざるをえない。

当初の目的のように本来は大学の在り方などに疑問を覚えていたようなかすかではあるが公共空間の変革を望む学生を、いわばその変革のための「資源」を共同性のために巻き込んでいくようなものに成り下がった。

学生維新が果たすべきは「多様性ある活動の場を与えること」と、「精神的にあるべき方へと導くこと」の二つである。

集まってきた多様な学生たちを同じ一つの具体的な方向へと向けさせるのはどう考えても無理のあることで、そんなことをしては反対を生むに決まっている。活動の場は集まってきた学生と同じく多様性がなくてはならないだろう。その場をどのように用意するかは検討の必要がある。しかし多様性があっても、その中から自分が何か一つのものを選択出来なければ意味はない。そこで必要になってくるのが二つ目の活動である。

「精神的にあるべき方へと導く」とは、何かしたいと思っているある学生が、何をするべきかを第三者(学生維新)が共に考えることを指す。当たり前だが人はそれぞれ、興味分野が異なれば得意分野も異なっているものだ。だが、ここで問題となっているある学生とは、自分の興味分野も得意分野もわからない人である。世の中にはそういった自分のやるべきことを見つけられない若者が多い。

学生維新がその「やるべきことを見つける手伝い」をすれば、学生維新は若者にとって重要な存在となるに違いない。そのためには一人一人と真剣に向き合ってその人の特性を見抜いていくことが重要だ。活動内容は大きく具体的なものへと変化し、やるべきことも増えるだろう。しかしそれは同時に、意義のある活動となることも確かである。

彼はそれでも学生維新に期待しているが、それはもはや成り立たないだろう。
一度共同性を重視し始めた組織をそれを厳しく目的性に向ける強力なリーダーシップが必要だし、しかもそれを疎ましく思う多数者から排除されることすらありうる。

そしてさらに詳細に述べるなら、「やるべきことを見つける手伝い」とは学生生活のコンサルティングのことだ。基本的に情報は死ぬほどあるのだ。講義情報だって探ればある。しかしその多様で大量な情報の中からマッチングをするのはかなりの教養と学生生活における知識が必要だ。

「やるべきことを見つける手伝い」に必要なのは、様々なサークルや学生団体、はたまたNPOなどの組織、もしくは個人で動いているロールモデルの中からダメなものを責任を持って切り捨てて紹介せず、良いものをのみ選び出す判断能力、自分の望みすらわからないほどに茫洋とした意思を汲み取るための卓抜した対話能力だ。

それを目指すのならば、この程度の話が出てこなくてはダメで、恐らく学生維新はそれを組織的にできる能力を持たない。

どうも色々な話を詰め込みすぎた気がするが、ブログというメディアで物を書くのが何年かぶりだということでご容赦願いたい。

神のみぞ知るセカイを垣間見るために

・愛は人工物であり、だからこそままならない。

 「愛は自然にまかせて内側から生まれてくるものではない。ただそれだけではない。愛もまた創造である。意識してつくられるものである。」とは福田恆存「人間・この劇的なるもの」の冒頭である。
 それを最も知っているはずなのはオタクである。なにせ我々は劇的な愛を望みながらそれが現実では叶わぬことを知り常に文句を言い続けている。それが可能なのは創作の中だけだと我々は思ってきた。
 「愛情は裏切られ、憎しみは調停され、悲しみはまぎらされ、喜びは邪魔される。相手がなければ愛情は怒らぬが、相手があるゆえに愛情は完成されない。」
 まさに『神のみぞ知るセカイ』でよく叫ばれる「これだから現実(リアル)は」というあれである。ブルマでないし、髪の毛を縛らない陸上少女に始まり、タバコを吸っったり非処女だったりするアイドルやバラエティーの方にいっちゃう人気声優とかのことだが。
 だから物語は現実と異なった、自分の理想を描いていて欲しいという人は例えば「処女の女の子とときゃっきゃうふふ」するという予定調和的な期待を持つ。そしてそれが裏切られると切れる。「非処女かよ!」と。このままならなさが許せず「かんなぎ」の「非処女」の漫画破り捨てるのはその延長線上にある。
 なぜ、完成されているべき仮想の中で、現実のように、劇的な愛を阻害するのか、と思ってしまう人が現れる。
 いや、しかし冷静に考えれば、二次元だってままならない。 それを描いてる人からしたら、現実もままならないが、理想や仮想だってままならない。それはテキストにしろ漫画にしろなにか書いてみればわかる。「めっちゃ長生きしてる神様とか、ふっつーにそりゃやってるだろ」というわけだ。だって日本の神様とか結構えろいことしてるし。やってない設定を作るほうが大変。いっぱい矛盾出る。
 そもそも物語とは理想を押し付ける物ではなく、理想を学ぶ物、なのではないのか。
 共感できる理想や、それまでの理想を変革するほどに理想的な物語をこそ生涯大事にすべきなのだ。それをただ、動物的な快楽のみを欲して、ちょっとでも気持よくないとポイってするのは、何十年か遅れてきた消費社会のようだ。
・仮想世界への誇り
 仮想世界を愛するオタクならばこそ、仮想世界に大して美意識や誇りをもたなければならないと私は思う。
快楽にのみ駆動される動物になることを我々は拒むべきだということだ。勿論、この現代社会に何を、というだろう。しかし他の部分ではまだしも、我々は我々の愛した、こと物語に対しては美学を持つべきであり、そしてそれは現実の自分自身にも勿論無縁ではない。
 そして、まず理想・仮想問わずして、恋愛を通じて異性(もちろんあるいは同性その他の恋愛対象であるかもしれないが)に大して我々はどのような態度を取るべきか、ということだ。
 
 これに対して私は3つの選択肢があると考えている。
 1、恋愛を通じて主役になることを諦める=消費の態度としては自己投影をしない「けいおん!」視聴。
 恋愛とは役割が複雑になりすぎた現代社会で、自分の物語を生きている、と感じることのできる数少ないシロモノであり、誰もが人生の主役になるチャンスがあるからここまでもてはやされているのだ。コミュ力不足や容姿不足でそれを手に入らないと諦め、別の部分で自分の物語を手に入れることを求める。異性に対する態度は自然、興味を持つとしても「けいおん!」などのように自分と関係ない人々として愛でることになるだろう。恋愛を消費するとしても、そこに自分は投影されることのない態度「〜は○○の嫁」に表されるように、人の幸せを祝うように自分ではない誰かによって幸せにされるヒロインを祝福できる態度であろう。
 事実、恋愛という形のコミュニケーションは誰しもにできるものではない。3の部分でも後述するが、我々は動物ではなく人間を志向するなら、自分が気持ちよくなるためでなく、相手を幸福にするために生きなければならない。それは現実でも空想であってもそうで、人間、キャラクターの幸せに思いを馳せなければならない。
 その幸せに自分が参与できないと思うのであれば「あきらめ」もまた真摯な態度である。

 2、本田透的な態度。イデアをこそ追求し、意志力を以て二次元のイデアな人間と恋愛するということだ。これは先の漫画を破り捨てた人間と同じに見えるかもしれないしもしかすると簡単に見えるかもしれない。 でも、これは「恋愛を諦める」よりも「現実で恋愛」するよりもはるかに困難な行為であると知られるべきである。私は率直に言って本田透を尊敬している。仮想はヘタをすると現実よりもままならない。誰が自分が「理想の具現化」と言えるほどのキャラクターに出会い、それを現実での恋愛以上に真摯に愛し続けることができるのだろう。
 見つけることができなければ本田透も言うようにそれをまさに創造しなければならない。そして理想と自分にとても「都合がいい」ということもまた別で、最初からレベル99で始めるゲームがひどく味気ないように、創造であっても都合が良いだけでは飽きる。その思い通りにならなさを内包するからこそ現実というのは仮想に比べて強固であり、「都合の良さ」でない魅力を仮想世界に想像することもまた才能や訓練が必要なのだ。

 3、桂木桂馬のように仮想で得た想像力を以て誰かを幸せにしようとする態度。

 やっと本題である。もちろん僕は上記二つに比べてこの回答を支持している。なぜなら僕は諦めたくないからだ。他者と傷つけ合わず、互いに幸福になるような愛が現実に存在できるということを。
 現実には吐き捨てたくなるほどに利己的で傷つけ傷つけられるような「愛」と呼ばれるモノが溢れている。でも僕は桂馬ほどの神ではないにしろ、「理想の国」の住人のつもりで、「理想を空気とし、イデアを糧と」してきた。そして現実にもその実現を望んでいる。だから、同胞たる「理想の国」の住人には期待する。オタクだからこそ、仮想における物語のデータベースを沢山知っているからこそ、幸福というエンディングに向けたルートを知っているからこそ選べる選択肢が現実にも出現するということを僕は信じている。
桂木桂馬はまさにその体現者なのだ。彼は攻略した女性に忘れられても「そのほうが彼女のため」だと平気で言うし、「忘れてしまうからいいや」と簡単に依存させるエンディングを選ばない。「心の隙間」を満たすだけでなく、開いた原因まで解決しようとする。そうでない選択肢を彼は選ばない。

 そうは言っても彼は現実なんてままならないクソゲーだと公言してはばからないし、現実と関わったのも設定上仕方なくだし、やっぱ現実<仮想だと思っているのではないかと思う方もいるかも知れない。
 だが、桂木桂馬は二次元だってままならない、と本当は知っている。
 だって、彼はバグのあるゲームのヒロインすら愛するじゃないか。バグだらけの現実と比べても論理的じゃないセカイの中で、ヒロインの描いた絵を見るだけのために総当りプレイを繰り返す。その姿に「仮想もまたままならない」と私は感想を抱かないわけにはいかない。しかし彼はそのままならなさにあきらめを感じることなく、ヒロインを幸せにするべく努力し続ける。
 彼が幼少期からたまたまその知性を発揮することができたのがゲームだというだけの話(もちろん、それを受け止めるに足る面白さがゲームという分野にあるのは間違いがない)で、かつ別のゲームも得意だがギャルゲーばかりやる、というのはただの愛着に過ぎないし、そういう人間の感情や思考、行動パターンを考えるのが得意なのだろう。小説ではシナリオの書き手のことも考えろとも言っている。そして何よりも重要なのは彼は、「ヒロインを幸せにする為にゲームをしている」ということなのだ。
 つまり、彼は想像力豊かでコミュニケーション能力に満ちたイケメンであり、しかも他者を幸せにする為に「恋愛」をいわば使っているのだ。いまさら言うまでも無いことだが、そんな奴がその気になれば、現実というままならぬセカイでも「リアル女」とのエンディングを見ることができるのは当然なのだ。
 
神のみぞ知るセカイ」は決して現実に対する「オタク大勝利!」という作品ではない。だって彼は作中で明言されているとおりかわいい顔立ちのイケメンだし、頭だって滅茶苦茶いい。その勝利は、「オタク」の勝利ではなく、厳密には「オタク的想像力」の勝利である。だが、それは現実に「オタク的創造力」が通用する手法だということは示した。

 オタク的想像力は現実において何者にも代えがたい武器になるはずなのだ。その他のパラメータを抜きにして考えれば「オタク」とは恋愛強者のはずなのだ。
 恋愛とはそもそも創作だ。少なくとも現代社会に生きる僕らは恋愛を最初漫画や小説、ドラマやアニメ、ゲームから学ぶ。(そもそも恋愛という観念も騎士道物語によって普遍的になったとかどこかで読んだ様な気がする。ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」あたりだったと思うが記憶にはない)
 非オタクの一般的な人と比して何十倍ものルート、キャラクターを自分のデータベースにストックしているはずだ。相手と自分のキャラクターからエンディングを逆算していくことは桂馬のように、とはいかなくても不可能ではない。それが現実に使えないと思い込むことこそ仮想に対する冒涜なのだ。
 神でない我が身ではあるが、「落とし神」桂木桂馬の視座を少しでも垣間見たいと僕は願い続ける。
 一人ひとりが彼の視座を目指し、仮想の経験をもとに現実を書き換えてゆき、「やるじゃないか!現実(リアル)!」とオタクの多くが叫べることを僕は望んでやまない。それが何よりも仮想(にじげん)への恩返しだ。

コミックマーケット79原稿