神のみぞ知るセカイを垣間見るために

・愛は人工物であり、だからこそままならない。

 「愛は自然にまかせて内側から生まれてくるものではない。ただそれだけではない。愛もまた創造である。意識してつくられるものである。」とは福田恆存「人間・この劇的なるもの」の冒頭である。
 それを最も知っているはずなのはオタクである。なにせ我々は劇的な愛を望みながらそれが現実では叶わぬことを知り常に文句を言い続けている。それが可能なのは創作の中だけだと我々は思ってきた。
 「愛情は裏切られ、憎しみは調停され、悲しみはまぎらされ、喜びは邪魔される。相手がなければ愛情は怒らぬが、相手があるゆえに愛情は完成されない。」
 まさに『神のみぞ知るセカイ』でよく叫ばれる「これだから現実(リアル)は」というあれである。ブルマでないし、髪の毛を縛らない陸上少女に始まり、タバコを吸っったり非処女だったりするアイドルやバラエティーの方にいっちゃう人気声優とかのことだが。
 だから物語は現実と異なった、自分の理想を描いていて欲しいという人は例えば「処女の女の子とときゃっきゃうふふ」するという予定調和的な期待を持つ。そしてそれが裏切られると切れる。「非処女かよ!」と。このままならなさが許せず「かんなぎ」の「非処女」の漫画破り捨てるのはその延長線上にある。
 なぜ、完成されているべき仮想の中で、現実のように、劇的な愛を阻害するのか、と思ってしまう人が現れる。
 いや、しかし冷静に考えれば、二次元だってままならない。 それを描いてる人からしたら、現実もままならないが、理想や仮想だってままならない。それはテキストにしろ漫画にしろなにか書いてみればわかる。「めっちゃ長生きしてる神様とか、ふっつーにそりゃやってるだろ」というわけだ。だって日本の神様とか結構えろいことしてるし。やってない設定を作るほうが大変。いっぱい矛盾出る。
 そもそも物語とは理想を押し付ける物ではなく、理想を学ぶ物、なのではないのか。
 共感できる理想や、それまでの理想を変革するほどに理想的な物語をこそ生涯大事にすべきなのだ。それをただ、動物的な快楽のみを欲して、ちょっとでも気持よくないとポイってするのは、何十年か遅れてきた消費社会のようだ。
・仮想世界への誇り
 仮想世界を愛するオタクならばこそ、仮想世界に大して美意識や誇りをもたなければならないと私は思う。
快楽にのみ駆動される動物になることを我々は拒むべきだということだ。勿論、この現代社会に何を、というだろう。しかし他の部分ではまだしも、我々は我々の愛した、こと物語に対しては美学を持つべきであり、そしてそれは現実の自分自身にも勿論無縁ではない。
 そして、まず理想・仮想問わずして、恋愛を通じて異性(もちろんあるいは同性その他の恋愛対象であるかもしれないが)に大して我々はどのような態度を取るべきか、ということだ。
 
 これに対して私は3つの選択肢があると考えている。
 1、恋愛を通じて主役になることを諦める=消費の態度としては自己投影をしない「けいおん!」視聴。
 恋愛とは役割が複雑になりすぎた現代社会で、自分の物語を生きている、と感じることのできる数少ないシロモノであり、誰もが人生の主役になるチャンスがあるからここまでもてはやされているのだ。コミュ力不足や容姿不足でそれを手に入らないと諦め、別の部分で自分の物語を手に入れることを求める。異性に対する態度は自然、興味を持つとしても「けいおん!」などのように自分と関係ない人々として愛でることになるだろう。恋愛を消費するとしても、そこに自分は投影されることのない態度「〜は○○の嫁」に表されるように、人の幸せを祝うように自分ではない誰かによって幸せにされるヒロインを祝福できる態度であろう。
 事実、恋愛という形のコミュニケーションは誰しもにできるものではない。3の部分でも後述するが、我々は動物ではなく人間を志向するなら、自分が気持ちよくなるためでなく、相手を幸福にするために生きなければならない。それは現実でも空想であってもそうで、人間、キャラクターの幸せに思いを馳せなければならない。
 その幸せに自分が参与できないと思うのであれば「あきらめ」もまた真摯な態度である。

 2、本田透的な態度。イデアをこそ追求し、意志力を以て二次元のイデアな人間と恋愛するということだ。これは先の漫画を破り捨てた人間と同じに見えるかもしれないしもしかすると簡単に見えるかもしれない。 でも、これは「恋愛を諦める」よりも「現実で恋愛」するよりもはるかに困難な行為であると知られるべきである。私は率直に言って本田透を尊敬している。仮想はヘタをすると現実よりもままならない。誰が自分が「理想の具現化」と言えるほどのキャラクターに出会い、それを現実での恋愛以上に真摯に愛し続けることができるのだろう。
 見つけることができなければ本田透も言うようにそれをまさに創造しなければならない。そして理想と自分にとても「都合がいい」ということもまた別で、最初からレベル99で始めるゲームがひどく味気ないように、創造であっても都合が良いだけでは飽きる。その思い通りにならなさを内包するからこそ現実というのは仮想に比べて強固であり、「都合の良さ」でない魅力を仮想世界に想像することもまた才能や訓練が必要なのだ。

 3、桂木桂馬のように仮想で得た想像力を以て誰かを幸せにしようとする態度。

 やっと本題である。もちろん僕は上記二つに比べてこの回答を支持している。なぜなら僕は諦めたくないからだ。他者と傷つけ合わず、互いに幸福になるような愛が現実に存在できるということを。
 現実には吐き捨てたくなるほどに利己的で傷つけ傷つけられるような「愛」と呼ばれるモノが溢れている。でも僕は桂馬ほどの神ではないにしろ、「理想の国」の住人のつもりで、「理想を空気とし、イデアを糧と」してきた。そして現実にもその実現を望んでいる。だから、同胞たる「理想の国」の住人には期待する。オタクだからこそ、仮想における物語のデータベースを沢山知っているからこそ、幸福というエンディングに向けたルートを知っているからこそ選べる選択肢が現実にも出現するということを僕は信じている。
桂木桂馬はまさにその体現者なのだ。彼は攻略した女性に忘れられても「そのほうが彼女のため」だと平気で言うし、「忘れてしまうからいいや」と簡単に依存させるエンディングを選ばない。「心の隙間」を満たすだけでなく、開いた原因まで解決しようとする。そうでない選択肢を彼は選ばない。

 そうは言っても彼は現実なんてままならないクソゲーだと公言してはばからないし、現実と関わったのも設定上仕方なくだし、やっぱ現実<仮想だと思っているのではないかと思う方もいるかも知れない。
 だが、桂木桂馬は二次元だってままならない、と本当は知っている。
 だって、彼はバグのあるゲームのヒロインすら愛するじゃないか。バグだらけの現実と比べても論理的じゃないセカイの中で、ヒロインの描いた絵を見るだけのために総当りプレイを繰り返す。その姿に「仮想もまたままならない」と私は感想を抱かないわけにはいかない。しかし彼はそのままならなさにあきらめを感じることなく、ヒロインを幸せにするべく努力し続ける。
 彼が幼少期からたまたまその知性を発揮することができたのがゲームだというだけの話(もちろん、それを受け止めるに足る面白さがゲームという分野にあるのは間違いがない)で、かつ別のゲームも得意だがギャルゲーばかりやる、というのはただの愛着に過ぎないし、そういう人間の感情や思考、行動パターンを考えるのが得意なのだろう。小説ではシナリオの書き手のことも考えろとも言っている。そして何よりも重要なのは彼は、「ヒロインを幸せにする為にゲームをしている」ということなのだ。
 つまり、彼は想像力豊かでコミュニケーション能力に満ちたイケメンであり、しかも他者を幸せにする為に「恋愛」をいわば使っているのだ。いまさら言うまでも無いことだが、そんな奴がその気になれば、現実というままならぬセカイでも「リアル女」とのエンディングを見ることができるのは当然なのだ。
 
神のみぞ知るセカイ」は決して現実に対する「オタク大勝利!」という作品ではない。だって彼は作中で明言されているとおりかわいい顔立ちのイケメンだし、頭だって滅茶苦茶いい。その勝利は、「オタク」の勝利ではなく、厳密には「オタク的想像力」の勝利である。だが、それは現実に「オタク的創造力」が通用する手法だということは示した。

 オタク的想像力は現実において何者にも代えがたい武器になるはずなのだ。その他のパラメータを抜きにして考えれば「オタク」とは恋愛強者のはずなのだ。
 恋愛とはそもそも創作だ。少なくとも現代社会に生きる僕らは恋愛を最初漫画や小説、ドラマやアニメ、ゲームから学ぶ。(そもそも恋愛という観念も騎士道物語によって普遍的になったとかどこかで読んだ様な気がする。ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」あたりだったと思うが記憶にはない)
 非オタクの一般的な人と比して何十倍ものルート、キャラクターを自分のデータベースにストックしているはずだ。相手と自分のキャラクターからエンディングを逆算していくことは桂馬のように、とはいかなくても不可能ではない。それが現実に使えないと思い込むことこそ仮想に対する冒涜なのだ。
 神でない我が身ではあるが、「落とし神」桂木桂馬の視座を少しでも垣間見たいと僕は願い続ける。
 一人ひとりが彼の視座を目指し、仮想の経験をもとに現実を書き換えてゆき、「やるじゃないか!現実(リアル)!」とオタクの多くが叫べることを僕は望んでやまない。それが何よりも仮想(にじげん)への恩返しだ。

コミックマーケット79原稿